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2011/03/23(水)
13日目 晴れ
でも寒い
朝食の前に配給があったけど寝てた
その後朝食はつみれ汁とおにぎり
ソーセージの焼いた物とほうれん草のおひたし
メールの確認に行くと昨日送信した知人から変身があった
世間話なので余り気にはとめない

最近は集会所の人数も減って自宅待機の人が多く見られる
そう言えば朝食の時
お茶が無いとかなんとかで近所のおばさんがごたごた言っていたが
昨晩にポットのお茶を取り替えたばかりと言うことを聞いてなかったらしく
その取り替え作業を独断で行ったらしい
こういう時こそ情報伝達の言うのは大切だとつくづく思い知る

しかしてこの近所のおばさん
随分手前勝手なことを色々とやっていてその愚痴が絶えない
酒のつまみにはなるだろうが世間を知らないとこんな物だろうと

午後ダラダラしていると元バイト先で一緒になった知人が来た
メールを送ったなんて言っていたが届くわけもなく
しかし差し入れとしてピザポテトを持ってきた
マジGJ

そしてまた部屋の片づけ
お古のPCを除いたところまで
ガラステーブルの使える状態までになった

それからYurtec、ガス屋ときてやっと日常が戻りそうなところまで来ている
とりあえず昔のSotecPCと祖父の棚を処分
AIWAのコンポもダメになってるので捨てる
へやのなかはさっぱりしたがまだ終わらない

今日の晩飯はあわびご飯と煮染め
本当ナマモノは多いところだ
でも今はらーめんが食いたい


2011/03/24(木)
曇り、14日目
早くも二週間、半月である
昨日とうとう電話回線が復帰したと言うらしい
電気が来なければ使えないのだから当家はあまり関係ない

今日も日がな1日部屋の片づけなのだが
どうしてもレイアウトに迷っている
どこにどう配置するかがかなり迷った
まだ決まってもないのだが
とりあえず物の処分を優先項目とするべきだろう

夕方、東北電力とYurtecが徘徊していた
その時から順次電気がついていった
復旧完了である

まだ部屋の掃除は終わってないのに

とりあえずPC移動
使える位置に配置
配線確認してPCを立ち上げる
動かない

統合被害
HDD600GB破損
キーボードはcoffeeぶちまけて叩けない
何が酷いって作業用フォルダがあるDドライブが持って行かれたこと
それに加えネット不通
影響がないと思っていたワケじゃないが

『真逆電気が来てから絶望するとは思っても居なかった』

明日にでもYAHOOに電話しよう


2011/03/25(金)
15日、晴れのち曇り
0時就寝5時起床
ショックが大きいとしか思えない

今日の朝食 おにぎり2個、昆布の漬け物、きんぴら、味付けたらこ、オレンジ

寝れなかったのか何なのか具合は悪い
よもや体調まで崩すとは思っても居なかった
午前中は寝てた
朝食で起こされる

親父は流された自分の車を見つけたらしい
ナンバープレートを外してきたが住所を残してきたとか
よくわからない

YAHOOもといSoftBankに電話
やはり被害は大きく順次復旧と言うことらしいが果たしていつになる事やら
前々から持っていた容姿の電話番号が使えなくて少し焦ったが
友人にメールして新たな連絡先を教えて貰った
本当に助かる

後は夕食までゴロゴロして過ごした
だるい

夕食は赤魚のみそ汁、たらこの煎り、ほうれん草のおひたし、エビの湯通し
電気が来たことによりゾクゾクと家に帰る人が出てきた
晩ご飯の時の人数は40人程度
この地区の住人が200人程度
避難したての時は60人くらいいたのだろうか
しかし余震なのか前触れなのか地震が続く

そして半月振りの風呂
親父の感覚で風呂を焚いたらしくものすごく熱かった

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2011/03/20(日)
10日目、晴れ
二階の片づけをちまちま
棚のネジ止めをしてないので作業は進まない
ぶっちゃけただでさえ埋まっている荷物を掘り起こさなければならないのに
いつになることかと思う

昼、また支援物資が届いた様子
電気復旧は地域的に最後の方に回されると思っているので
半ば諦めている
聞いた話、鮎川の方では港が使える様になったとかで
色々と海路から直接届き、電気も来ているらしい
中心地と海と両側から挟まれた地域なんてそんなもんだ

夜はおにぎりと漬け物、煮物を出された
支給品も皆に配ったしこれで文句上がるなら後は御自由にだろう
責められるのは他人
上も下も最早関係ないのだ

唯一良いことと言えば
規則正しい生活が出来ていることだろう


2011/03/21(月)
11日目、曇り
やっとというかとうとうというか自分の部屋に着手する
とりあえず入り口の辺りを少し片づけ通路を作ったくらいにして弟の部屋へ
缶もペットボトルも出てきたけど
多分同じ量がボクの部屋からも出てくるだろうと推測
とにかく何にせよ大量にある本をどうにかしなければ

良い機会なのでPCの周辺機器で使えそうにない物は全て捨ててしまおう
邪魔だから

夜は知人と電話
こんな暮らしですと説明したら被災地じゃねーとか言われた
自分でもそう思ったから否定はしない
なんだかんだで1時間くらい話をしていたらしい
気が付けば21時だったし

電気復旧は後一週間はかかるだろう
どうせ近辺が壊滅なのだから後手に回るのは当たり前だし

そして風邪を引いたらしい
夜は寒いと痛感する

2011/03/22(火)
12日目、曇りのち晴れ
起きて集会場に行くと既に朝食が終わっていた
雑炊とみそ汁、バナナとパン
昨日の夜は鶏の唐揚げ、ささみサラダとやっぱり避難民とは思えない食事だ
聞いた話、被災をして避難している人には支給があるが
基本的に自宅待機者に支給はないらしい
この地区ではそんな自宅待機している避難者にも
支援物資が分けられるのだからありがたく思われても文句を言われる筋合いは無いと思う

昼間、これを書こうとしていると借金の取り立てが来た
誰かと思えばMiRyLである
妹さんを連れて来訪
今はダイニングバーの方にいると言う
近辺の奴等は皆無事と聞いたが
その中にはどーでも良いヤツも居たわけで
どいつもこいつも生かされたのかと思った

帰りを車まで見送りしてその後片づけ
ぶっちゃけ掃除機が使えないのは痛すぎる

夜になってメールを確認していると知人から電話が来る
無事だと言うことを話すると
その知人近辺が心配していると言われた
とりあえずメールだけ入れておけばいいだろ

とりあえず今はチョコが食いたい

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2011/03/14(木)
7日目
雪が降りとても寒い日になった
家の中の片づけ、今日は仏間と茶の間
正午過ぎに従兄弟が訪問
色々と走り回って探していたらしい
聞いた話血縁でいないのはもうボケが始まった婆さんくらいだと
近場の爺さんこそなどと言っていたが半分は冗談だろう
つまり半分は本気

夕方から少し寝て飯を食い漁っていると携帯の電波が入ったらしい
集会所の上の道路に出ればアンテナが立った
そのまま知人に連絡を取る
母の携帯でしか電波が入らなかったので番号が違う為
取って貰えるかは運だったのだがちゃんと取ってくれた

しかし今こちらは治安が悪い、略奪に加え強姦もあったらしい
後は徐々に復帰していくことを祈る


2011/03/18(金)
8日目
地震発生が14時46分
丁度一週間となる
余震はまだまだ続いている

しかしこのように避難生活をしていると教わることが多い
ナタの使い方、節水の仕方、火の炊き具合と様々
世の中は知らないことだらけだ

最近から支援物資も届き、生活は潤いを見せ始める
が、元々豪勢な食事だったのだ
今この状況で更に贅沢と言うことはないだろう
夕方には酒を入れていた人たちもいたし牛タンまで食っていた
どこから持ってきたのかは知らないが
本当に避難生活なのかと確認をするが
電気がないだけで十分避難民だなと実感ではある

夕食を終えて母の携帯のメールチェックで山に登る
街灯が無いからちょー暗いんですが
210件の内9割が迷惑メールってどーゆーことだよ
いい加減メアド変えればいいのにとか思う
明日は母の実家に住んでいる義妹を連れてくるとか
家の中の片づけ終わってないのに


2011/03/19(土)
9日目、晴れ
今日から少し暖かいらしい
携帯の電波が入ってくる場所も見つけて
それぞれに連絡を取ったし大丈夫だろう

両親は母の義妹を連れてくると言って女川に行ったのだが
仮設住宅等の手続きもあるので
知らないところに行くよりは避難所にいた方が良いらしい
心配と言えば物資くらいだと

夜、夕食後にとうとうと言うか南というか面倒なことがあった
最近物資が来ているのだが
それをなぜすぐ分配しないのかと言うことらしい
きちんとした数も把握してないのに人数分与えられるかというのがこちらとしての言い分だが
向こうとしては集会所だけで配っているのではと思っているらしい
一週間も過ぎればそんな不満が当たり前になってくる
不安なのは皆一緒というのが理解出来ないわけではないのだが
ストレスのはけ口がナイとなれば当たり散らすしか無いのが当たり前なのだ
しかし先の見えない人生ということは
不安と常に一緒だと言うのは知っているはずなのにと思う

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2011/0314(月)
4日目、朝一で万石浦中学校方面まで自転車を走らせる
海だまりはまだ引かない様子
宮城生協渡波店では7時半の時点では既に人が並んでいた
食料不足はどこも否めない

最近はヘリもかなり低空を飛んでいる
何をしているのかは知らないが

朝から知人に会う
農家を実家が営んでいると言って
余りがあるなら米を持ってくるとは言っていたが
おそらく持ってこないだろうなと思っておく

万石浦ニュータウンからすぐの赤堀に行くと
道路に乗り上げた船を動かそうと乗った人が居たのだが
中の油が抜かれていたらしい
他では自販機が壊されたり等の活動も始まっているとか
自宅が残っているだけに注意が必要だろう

途中、海水の中を無理矢理進んでいた車があった
エンジンまで浸かったのだろうか煙も噴いていた
この状況ではまず修理はできないだろう
ご愁傷様

ラジオでは福島原発爆発のニュースも上がっていた
にしても石巻、女川の情報がほとんど無い
孤立の状態はまだまだ続きそうである


2011/03/15(火)
5日目、蛇田で通電したとの情報が入る
だが川を挟んで向こう側からなのでこちらに来るのはまだ先の話だろう

盗難の話も新たに入った
ガソリンだけでなく車上荒らし、プロパンガス、不法侵入
こう言う時まで商売熱心だなと話をしていたが
わざわざ辺鄙なところに来てまですることではないと思う

初日は雪でその後、昨日まで暖かい日だったが
今日からまた冷えるらしい
これが2~3日続くというので体調管理はしっかりしなければならない

今日は自宅の片づけ
他の家も徐々に始まり冠水した家の畳などを外に出していた
自宅は乳がやっていたので他の家の手伝いをすることに
水を吸った畳はさすがに重い
それに折れる畳なんて始めて見た

午後からはずっと家に籠もった
昨日から筋肉痛が身体を襲っている
それもそうだ
家から出ることを知らなかったのだから
運動不足がここで祟るとは思わなかった


2011/03/16(水)
6日目、今日から冷え込みが真冬並みらしい
超風邪引きそう
雨も降っているので外作業はしないらしい
ので母と一緒に万石浦中学校まで歩く事になった
途中渡波小学校に寄り避難者の確認をするが
知り合いは誰もいなかった様子
その後は昔サッカーのスポ少で知り合った
母が今でも仲の良い友人の家に

時間が掛かりそうだったのでそのままにどるの家に行く
親戚も居て賑やかではあったが
オール電化なので火も起こせないとか色々
それとマブカプ3を買っていて
今日はシュマゴラスの配信を心待ちにしていたらしく
それはそれはとてつもなく残念そうだった
雑談しながららーめんと雑炊をいただいたので
水に困ったら来いと伝え
また今度と言うことで母と合流し帰路に

自宅に戻ると晴れたせいか近所住民が作業をしていたが
もう夕方だし別にいいか
頭も痛いし
だが断ると言わんばかりに炊き出しに駆り出される
わがままは言ってられんのだが

しかして鯨肉とか野菜とか出てくる
この地域は本当に被災地区なんだろうかと思ってしまう

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2011/3/11(金)
14時46分、最大震度7を観測する地震が発生
部屋の物は8~9割倒れる
最中は全く立っていることが出来ない状況である
揺れは5分ほど続いた様にも思えたが
実際は3分程度と推測される
要は良く覚えていない

ネットの友人からメール、電話が来てる最中津波の警報が鳴る

その場、とにかく水と食糧を確保しなければと思い
外に出た時水だと叫んだのを覚えている
次々と近所住民が外に出て集会所に避難
津波到達は自分の地域はかなり緩やかな物だった
湾になっているおかげだろう

その晩、余震と津波に恐れながらほとんど寝ずの一夜を過ごす



3月12日(土)
昨夜は集まった人々で野外食である
勿論電気水道は使えない状況だ
自家発電機を持っている住人が居たのが幸い
なんとか米は炊けたが調理は難しいだろう
夜が明けると集まった人々が色々と物を持ち寄った
鍋、ナマモノ、釜、釜戸の様な物まで
米を炊くには困らなくなった
煮ることも出来る
当分は生きていけるだろうが食料が底を付く方が早いだろう
何せ身体が不自由な人が多い地域だから
動こうにも動けない方が多いと言う高齢者地区である

その他、津波は何度も引いたり押したりを繰り返す
余震は止まらない
他の地区は死体が上がっているらしい

そして親父は戻らない



3月13日(日)
昨晩は疲れの所為か20時に寝て6時に目を覚ます
夜明けが5時半を過ぎるくらいなので丁度良いくらいだ
朝早くから沢水が流れていると言うことで探索していた人が居た
一緒になって探して沢水を発見
何の問題もなく飲める様なのでそのまま使用することに
(後で聞いたがその沢水は山から出てくる水で
 数十年前からずっと流れ続けてるという
 自然は偉大だと思う)
タンク6つ、ペットボトル10以上全てに水を汲む

近場のコンビニは商売を始めていたが落ちた物は全て泥を被っていた

午後からは街を探索
あふれているのは海水だけでなく
避難した人々もだった
知人を数人見つけるも
いつもの道は自転車での移動はかなり困難な場所になっていた
泥、海水、泥、がれき、泥、人、がれき、海水…
見渡す限りの風景は全て変わっていた

その変わっている風景の中
親父の会社の勤めている会社まで行ってみる
親父の会社は海辺にある為
全て波に浚われ中身はもぬけの殻である
会社の駐車場に停めてあった車はどこへ行ったかなど
最早見当も着かない

その会社に行く途中の浸水した地域でも
水田に車は投げ出され倉庫は動き土台以外残っていない家もあった
ここで始めて被害の大きさを知る

ボク等の地域は全然マシだった
食料、水に恵まれていたからだ
それに加え家も残っている
しかし世の母は強しなのだろう
自分の地域は都市ガスが来ておらず
プロパンガスを使用しているのだが
点検も何もせずに既に使用しているのだから

晩ご飯を食べのんびりしている所に父が帰ってくる
思わず泣いてしまった
弟、妹も無事であるらしい
親父の所に連絡が行っていた様だ

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